今宵は満月。
空はどこまでも蒼く、冴え冴えとした光を地上に降らせていた。
風は亡く、音は死に、影も凍る、そんな夜に訪れた――
宙をはらむ深紅の布。
零れ落ちた極上の金糸。
――その、在り得べからざる光景に。
ロイ・マスタングは己が目を疑った。
ここは、人口百万江戸の町。町人と商人と職人でごった返す場所。
けれど人で溢れる所には、人を餌とする妖も多く顕れる。
そのため、この国には『軍』と呼ばれる妖怪討伐組織が存在していた。
軍に所属し江戸組を統括する司令官であるロイ・マスタングはその日、有能極まりない部下リザ・ホークアイの仕事責めからようやく解放されて帰宅する途中、偶然こちらの世界に顕れたばかりの妖と遭遇したのだ。
八つの脚を持つことから『蜘蛛』と呼ばれるその異形は体こそ馬より大きいけれど人を狩る能力は低い、ロイにとっては手強くも何ともない相手だった。
蜘蛛はロイに気付いていないらしく完全に背を向けていて、四本の前脚を高々と振りかざしている。
ロイも何度となく見たことがあるそのポーズは威嚇の――
(威嚇?誰かいるのか?)
正式に訓練を受けた軍人や腕に覚えのある者ならともかく、一般人なら腰を抜かしていてもおかしくない。
ロイは慎重に足音を殺し、巨体を回り込むように移動した。
蜘蛛は耳に類する器官を持たないが、その長い脚で敏感に振動を感知するのだ。
じりじりと三間(約5.4メートル)程忍び寄ると、蜘蛛の太い脚の隙間から赤い外套を纏った小柄な人影が見えた。
付属の頭巾を被っていて顔は伺えないが、腰には体格に不釣り合いな長刀が差してありその性別を教えていた。
少年は怯えている風もなく、牙を剥く蜘蛛の前に突っ立っている。
(何をしているんだ?)
立ったまま気絶しているんじゃないだろうな、などと突拍子もないことを考えながらロイは声を張り上げようと息を吸い込んだ。
あまり近いとロイの術に巻き込まれる可能性があるので、離脱を促す為だった。
が、ロイが声帯を震わせる前に事態は急転する。
ゆらりとその身が動いたかと思ったら、少年が蜘蛛に向かって走り出したのだ。
(何!?)
『傲――!』
均衡は崩れ、蜘蛛が咆哮を上げながらかざしていた脚を振り下ろす。
先端に備わった鋭い爪は少年の外套を――外套のみを引き裂いた。
蜘蛛の四連撃をかわしきった少年は勢いをそのままに左腰に手を添えて。
斬――!
目を射るような煌めきは一瞬。
鎮。
涼やかな鍔鳴りの音がとどめになったかのように、急所を斬られ絶命した蜘蛛の体組織がぼろぼろと崩壊する。
二人を遮る塀は崩れて。
ロイと少年は向かい合った。
そしてロイは息を呑み、我が目を疑う。
顔を隠していた頭巾は蒼く染まった地に落ちて。
鮮やかに月光を弾く金色が露になっていた。
(金の…髪…?)
髪の色は黒または茶。29年間で培われた、揺るぎようのない常識から外れたそれは到底、人とは認められるものではなく、大きく見開かれた両目の光もさながら獣の瞳の様で。
調った顔は作り物の面かと疑いたくなる程表情が無く、それが尚更人間味を失わせていた。そのため、
「…狐、か?」
ロイが思わずそう呟いてしまったのも無理のないことだろう。
ロイの声が届いたかどうかは分からないが、少年は何の反応も示さずただロイから顔を背けた。
高い位置で括られた、まさに狐の尾によく似た髪が少年の動作に従って流れる。
「あっ、おい待て!」
古来よりこう言われる者が待った例しはない。
少年はその身を翻して、風のように駆け去った。
趣味だけで始めてしまいました…!
ちゃ、ちゃんと終わらせられる、かな…(汗)