「兄さん?…その人、誰?」

屏風の向こうから少女のように澄んだ声が聞こえた。
土間に備え付けの流し場から少年が立ち上がる。肩から零れたその髪もまた、星月の金。

(兄さん、ということは弟か)

自身が光を放っているかのような二人を見比べながら、ロイは乾いた唇を湿らせた。

「ロイ・マスタングだ。お邪魔するよ」


紅恋歌 〜クレナイコイウタ〜


行灯が点された八畳一間。
兄弟二人とすればかなり余裕があるはずのスペースが、積み上げられた膨大な書物の所為で手狭に感じられる。
そんな中、弟のアルフォンスと共にロイと相対し。
これは呪いだ、とエドワードは静かに言った。

「俺達は、母さんを…母さんを甦らせようとして―――失敗したんだ」

「…」

ロイは黙ってエドワードの次の言葉を待つ。

「親父は物心つく前から殆ど家にいなくて…母さんが俺達の全てだった。
だけど、母さんは俺が十歳のときに流行病で…」

エドワードの眉間に皴が刻まれる。
泣くことを決意でもって封じ込めた、そんな表情だった。

「葬式にも帰ってこない馬鹿親父の座敷には呪術の本が腐るほどあった。
その本で術を学んでいた俺達は研究を重ねて――母さんを生き返らせようとしたんだ。 ある人の弟子になって薩摩で修行を積んで、十分な準備をして、絶対成功すると思った。
その結果が――この様だ」

エドワードは自嘲気味に吐き捨てた。
アルフォンスが悲しげな顔でエドワードの言う『この様』を補足する。

「その強大な力故にあらゆる願いを叶えると云われている異形、真理。
僕達は真理の使役に失敗して―――逆に真理の餌にされてしまったんです」

「真理の、餌…?」

何のことか理解できなかったロイが問い返すと、アルフォンスは唇を噛んで俯いた。
エドワードも膝の上の拳を強く握る。

「力のある妖は滅多に此方に出てこないし、人間を襲ったりしない。異界にいて、己より弱い異形を食べたほうが効率がいいからな。
だから奴等が人間を食うときは…より異形に近づけてから食う。妖力に慣らすんだ。
餌に決まった人間は奴の力に浸食され…完全に馴染んだところで食われる。アルや俺の髪がこんな色なのもその所為だ」

じじじっ、と音を立てて撚糸が燻ぶる。妖力に染められたというエドワードの髪がゆらりと昏い灯火を弾いた。

「俺は夜だけだけど、アルは一日中このままで…昼間、太陽が南中する間だけ、幻術と対妖の穏形術を掛けてやっと出歩ける。あとはずっと、この結界の中だ」

ロイはアルフォンスの日常を想像する。窓を締め切り、薄暗い部屋で書物相手にただエドワードの帰りを待つ―――そのもどかしさは如何ほどのものだろう。
強い決意が滲む瞳でロイを射抜き、エドワードは言った。

「俺達は絶対にこの呪いを解く。だから、奴を倒せる武器が欲しい――」

「武器…?」

身を乗り出したエドワードにつられてロイも上体を傾けた。
エドワードは唇を笑みの形に歪ませる。そして低く、その名を囁いた。

「神の血から生まれたと云われる伝説の刀―――緋芳、だよ」

ロイは遠慮なく眉をひそめる。
エドワードが口にしたのは伝説級の、逆に言えば伝説でしかない代物だったのだ。
暁鶴、紅龍、灼華―――様々な名を持つ、刀身が赤いというそれだけしか分からない一振りの刀。

「…そんなものが実在すると本気で思っているのか?」

「記述は――記述だけはあちこちにある。餌にならないために、俺達には緋芳が絶対に必要なんだ」

(強い瞳だな)

これほどの逆境にも諦めない。
見るほどに、深い色に変わる。
ロイは一月前に感じた昂揚を再び思い出していた。
エドワードと話をすると、底知れないものを覗き見ているような気分になる。
呑み込まれそうになってでも、もっと奥を臨みたいと思う。

ロイがエドワードの瞳に惹きつけられて―――否、正直に言えば見惚れていた隙に、エドワードは数刻前竜虎を切り裂いたばかりの太刀をロイにぴたりと突き付けた。

「兄さん…!?」

「俺達はまだここを出て行く訳にはいかない。異形を使っての蘇生術――禁忌中の禁忌だ。アンタがバラすってんなら――ちょっと手荒なお見送りになるぜ」

「兄さん!そんな、悪い人には見えないよ!」

ロイは落ち着いてそっと刀の峰に手を添えた。氷に触れたように冷える指先に力を加え、切っ先を眼前から除ける。

「私は先の大戦で出世した口でね。―――この程度の禁忌など、腐るほど見てきたんだよ」

「っ……」

語る内容とは裏腹に頬笑みすら浮かべるロイに、エドワードがその剣先を震わせる。

「アルフォンス君。すまないが、灯を貸してもらえるかな」

「あ…は、はい!」

言葉を失って立ち尽くすエドワードを最後に軽く一瞥して。アルフォンスから提灯を受け取ると、ロイは長屋を後にした。


「兄さん、油断したんでしょ」

三つの湯飲みを盆に載せ、アルフォンスがエドワードに鋭く突っ込みを入れた。
でなければ、内からは何も漏らさず外からも入れぬ特製の結界にロイが割り込める筈がない。

「ぅ、うるさいっ!―――でも、アイツ…」

刀を鞘に収めながら呟いたエドワードにアルフォンスも頷く。

「うん。見逃してくれるみたいだね」

「…胡散臭いヤツ」

アルフォンスに聞こえぬよう小声で吐き捨てる。
さっさと薄い布団に潜り込んでしまったエドワードの背中に、地獄耳のアルフォンスは慌てて声を掛けた。

「兄さん!明日、ちゃんとお礼言ってきてよね!」




…エドワード、晩御飯食べないんでしょうか。