*うっかり* 138/365
店先には『骨休め』の札。
これは格段珍しいことでもないので、鳥口はひょこひょこと表口に回った。
「御免下さ〜い」
…しかし、敷居を跨ぐとすぐさま浴びせられるはずの辛辣な言葉はなく、中禅寺宅は静まり返っていた。
「師匠ー…居ないんですかぁ?」
どうやら京極堂も千鶴子も不在らしかったが、常に十手先二十手先まで考えている思慮深い中禅寺に限って、鍵を掛けずに出掛けるなんてことがあるだろうか?
しかし、事実鍵は掛かっておらず、奥を窺ってみても人の気配は無い。
珍しいこともあるもんだ、と鳥口は口を尖らせた。
「不用心ですねぇ、泥棒に入られたらどうするんです?」
まぁたとえ盗人が這入ってきても本しかない部屋に呆れ果てて出て行くだけでしょうけどねぇ。
独り言を独り言とは言えないボリュームで零しながら鳥口は靴を脱いで家に上がった。主は不在だが、ならば尚更留守番が必要だろうという鳥口なりの判断だった。
上がってすぐの、最早書棚が壁のようになっている座敷の障子を開ける。と、
「ありゃ?」
しんとした座敷に、意外な人物が転がっていた。
「先生…?」
座布団を枕に、両手を胸元に引き付け僅かに背を丸めた関口が眠っていた。
熟睡しているのか、鳥口が結構な物音を立てていたにも関わらず身じろぎもしない。
鳥口は慎重に障子を閉め、足音を忍ばせて畳の上に正座した。今更関口が目覚める可能性はかなり低かったが、何となくそうしなければならないような気がしたのだ。
息を潜めれば、関口のすうすうという寝息が聞こえる。
緊張の一切を解き、純粋に睡眠に身を浸すその姿はあまりにも無防備に見えた。
——これで、三十路過ぎの既婚者なんすよねぇ…。
鳥口はそっと身を乗り出し関口ににじり寄った。今は閉じている、長い睫毛に縁取られた目蓋。その向こう側に隠れた黒目がちの瞳を思い出しながら唇を関口の耳元に持っていく。
「先生…?」
これほど近くで囁いても関口はぴくりともしない。
まるで人形のようだ——
生きていることを確かめようとするかのように、鳥口は更に距離を縮めて———
「何をしているんだい?」
鳥口は四つん這いのまま獣のような素早さで関口から飛び退いた。
「うわ、師、師匠いつから居たんですか!?」
腕を組んで気配もなく座敷の入り口に立っていた京極堂は至極不機嫌そうに「今帰ってきたんだよ」と言った。
「偶々関口君が来たから留守番を頼んだんだが…寝ていたんじゃあ留守番の意味が無いじゃないか」
京極堂は歩を進めると先程まで鳥口が居た場所に屈み込んだ。関口の肩に骨張った手を添える。
「ほら、関口君起きたまえ」
京極堂が軽く揺すると、関口は「うぅ…」と呻りながら顔を顰めた。嫌そうに辛そうに、目を半分ほど開ける。
「ぁ…京極堂…?」
「寝惚けるんじゃない。君には留守番を頼んだ筈だろう」
段々記憶が蘇ってきたのか、関口の眉が困ったように下がっていく。
「ご…ごめん、つい…」
「ついじゃあないよ。君は好い年をして、五歳の子供でも出来る留守番が出来ないと言うのかい?」
「う…だから謝っているじゃないか…」
京極堂の容赦無い叱責に関口は小さくなるしかない。関口にどれほど責任感が無いかということについてひとしきり説教をぶった後、京極堂はようやく「それで、君には疲れて帰ってきた僕を労わる気遣いも無いのかい」と言った。
「あ、じゃあお茶を淹れてくるよ」
ほっとした顔をして慌てて立ち上がった関口が「鳥口君、来ていたのかい?」などと今更なことを訊きながら台所へ消える。
「鳥口君」
常のように活字を追い出した京極堂は、冷や汗を体中にじっとりと浮かべている鳥口に目もくれずに言った。
「———許すのはこれきりだよ」
何を、とは言わない、訊けない。
関口が茶を準備するドタンバタンという音が響く中、鳥口は言葉もなく頷く他なかった。
終
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