*私の名前* 33/365



「――巽」

それは、本当に唐突だった。
寝耳に水、藪から棒、青天の霹靂…は言い過ぎとしても、あまりに珍しい出来事に、私はそれが自分の名だと一瞬認識できなかった。

「な、何だい急に」

京極堂はいつもの仏頂面を縁側で伸びている柘榴に固定したまま、辞書でも読み上げるように言った。

「巽:遠慮する、自分が後へ引く、柔軟にへりくだるの意。大成した時期からそう呼ばれる周易における八卦の一で、東南を指し従順卑下の徳を表す」

京極堂の意図が読めず当惑しながらも、意外に的を射ているものだと私が感心していると、京極堂が同じことを言った。

「名は体を表すと云うが君の場合は当にそうだね」

だから何だというのか。京極堂が無知蒙昧な私に講釈することはしょっちゅうあるが、私の名前の由来を語ったところで何の意味もないだろう。
ようやく京極堂は私を正面から見た。

「…巽には、風の意味もある。何者も君を縛っては置けず、そして君はいつも僕の心を掻き乱していくんだ」

怒っているのか苛立っているのか、自分には絶対真似できないような厳しい目で射竦められる。

「か、掻き乱すって…」

それはどちらかといえば彼の方にこそ当てはまると思う。

「京、極…うわっ!?」

何故かは全く分からないが、私は抱き締められていた。
はね除けることを思いつく前に、一分の隙間もないほどきつく掻き抱かれ、これ以上なく近いところで彼の声を聞かされる。

「関口君。好きだよ」

常の私なら茹で蛸のように赤面し、その時点で半分以上意識を失ってしまっただろう。
だが、京極堂の言葉には内容とは裏腹に切実なものがあり、逆に私を冷静にさせた。

「だから、何処にも行かないでくれ」

私が何処に行くと言うのだろう?
私は地に足がついているとは言えないが、私から見れば京極堂の方がふとした瞬間に消えてしまいそうだ。

「僕は此処にいるよ…」

私は至極当たり前のことを、間の抜けた調子で言った。

「関口君」

私の声が聞こえないかのように彼はまた私の名を呼んだ。

「京極堂…?」

この体勢では京極堂の顔は見えない。私を抱き寄せる細い腕には力が込められていて少し苦しい。

「関口君」

もしかすると――怯えているのだろうか、この男が?それこそ何に?私はされるがままの状態で目をしばたいた。
私は京極堂の腕に手を重ねた。

「大丈夫だよ」

目を閉じ、京極堂の心臓の音に耳を澄ます。
私達は互いの鼓動が聞こえるほどこれ以上ないくらい密着していて、京極堂の力は強くて、私は――何処にも行きようがないのだ。

「だって君が…捕まえていてくれるんだろう?京極堂」

「関口君――        」

京極堂が何と呟いたか、私には判らなかった。唯、彼が零した吐息が私の髪をそっと押した。







唐突に切なくなった京極堂でした。