|
ある朝、家先を掃いていた中禅寺千鶴子は眩暈坂を関口雪絵が上って来るのを見つけ、その手を止めた。雪絵は、千鶴子とよく二人で観劇や買物に出掛けたりもする親友である。
「おはようございます、雪絵さん。どうなさったの、こんなに早くから?」
いつものように豊かな黒髪を一つに結っている雪絵は何かを大切そうに抱いていた。その様子は赤子を抱いているようにも見えたが、毛布の塊は赤子を包むには余りに小さい。
「おはようございます。ちょっと相談したいことがあって伺ったんですけど…今、よろしいかしら?」
「ええ、勿論よ」
千鶴子が笑顔で応えると、玄関に腰掛けた雪絵はほっと表情を和らがせた。そして、膝に下ろした布の包みをそっと解いていく。隣に座って覗き込んでいた千鶴子は口元をおさえた。
「…まぁ、子猫!一体どうしたの?」
毛布の真ん中で丸くなっていたのは一匹の猫だった。全身濃い灰色で、鼻先から腹にかけてと尾の先は白い。生まれてからあまり月日が経っていないようで、両手で包めそうなほど小さかった。
「昨日帰ったら、家の前に置き去りにされていたんです。小さな木箱に、古新聞と一緒に入れられて…」
「どうするの?里親を探すなら私も手伝うわ」
千鶴子の申し出に雪絵は首を振った。優しい目つきで膝上の子猫を眺め、眠る猫が凍えないよう体に静かに毛布を掛けてやる。
「家の前に捨てられたのも何かの縁ですもの、私が飼うつもりなの。でも…」
一度口ごもり、雪絵は表情を曇らせた。
「私、お仕事の関係で明日から一週間ほど出張することになっていて…。突然の事で申し訳無いのだけれど、この子をその間、預かっていてもらえないかしら?」
「お安い御用よ!それで、名前は決めたの?」
雪絵は愛しげに子猫を撫でながら頷いた。
「ええ。巽、というの」
―――こうして、私関口巽はこの古書店に預けられることになったのである。
「…柘榴…喧…ないかしら…」
「虐める…ならどこか…隔離…」
近くから聞こえる声に、私はゆっくりと目を開けた。
視界は狭く、薄暗い。どうやら私は柔らかく温かい毛布にくるまれていているらしい。
(ああ、そうだ…雪絵が、出張だって…)
大きく伸びをしてから、前脚で毛布をかき分ける。身体に纏わりついてくる毛布からやっと頭を出すと、私は毛布ごと籠か何かに入れられているらしかった。その竹編みの籠から下りようとして足を滑らせ、私は畳の上にべしゃりと落ちた。
「痛い…」
「あら、起きたのね。大丈夫かしら?」
女性らしい高い声は後ろから聞こえた。落ちた体勢のまま振り返れば、上品な顔立ちをした女性が正座をして私を見下ろしている。雪絵から私を預かった千鶴子という人だろう。
「子猫は体が柔らかいから、心配ないさ」
低く落ち着いた声に私は頭を前に戻した。
痩身を着流しに包み、右手には本。尖った顎に眉に掛かる黒い髪、眉間には刻まれた深い皺。彫像と言われても納得してしまうかもしれないくらい、その姿には隙が無い。
『静謐』という言葉が脳裏に浮かんだ。男の纏う気配は厳しいものだけれど、近付くものを突き放そうとはしていない。人気の無い奥まった場所で、黙してただ静かにそこに在り続ける―――。
預かり主となるその男に引き寄せられるようにふらふらと歩き出した私は、机の足――それも角――に頭をぶつけてしまった。
「っ…!」
「あらあら、そそっかしいのねぇ」
苦笑交じりの千鶴子の声に私の耳がかあっと熱くなる。ご主人――京極堂と言う通り名は後で知ることとなる――も私の失態を笑っているのかと恐る恐る見上げると、彼は難しい顔をして私をじっと観察していた。
「…いや、目が悪いのかもしれないな」
そう言って、京極堂は徐に私を抱き上げると顔を覗き込んだ。
「見たところウィルス性の病気ではないようだから、恐らく生まれつきだろう」
確かに私は遠くのものは見えるのだけれど、近付いてくると輪郭がぼやけてしまう体質のようだった。母や、一緒に生まれた兄弟達はそんなことは無いと言っていたから、私が雪絵の家の前へ捨てられてしまったのはこの眼が原因だったのかもしれない。
「それじゃあ気をつけてあげないといけませんね」
「目が悪くても生活できるようにきちんと躾ける必要があるな」
京極堂の手の中にいた私は、とりあえず籠に戻される。今までの遣り取りだけで私は疲れてしまっていて、机にぶつけた額は痛いし、潜り込んだ毛布にはまだ温もりが残っていたのを幸いに私はまた眠ることにした…。
「巽、ご飯の時間ですよ」
いくらもしないうちに千鶴子の声で起こされた私は再び籠から落ち、千鶴子に台所まで連れて行かれた。
「柘榴、雪絵さんから預かることになった巽よ。仲良くしてね」
餌が乗せられた二枚の皿と共にそこにいたのは柘榴という白猫だった。(私と比べれば)とても大きな柘榴は千鶴子に応えて「にゃあ」と鳴いたあと、私に向かって愛想良く言った。
「よろしく、新入りさん」
「あ、よ…よろしく…」
しどろもどろで挨拶した私に、柘榴はにゃっと笑いかける。
「こっちが柘榴でこっちが巽のよ。さあどうぞ」
千鶴子が立ち去ると、それまで黙って餌を食べていた柘榴が顔を上げた。
「後で、イイところに連れて行ってあげるよ」
「いいところ?」
聞き返したが柘榴はそれ以上何も教える気が無い様で、私はせめて柘榴を待たせないよう一生懸命牛乳を舐め始めた。
「こっち」
餌を食べ終わると柘榴は座敷を抜け、縁側から庭に私を案内した。と、急に柘榴の姿を見失う。
「あれ?」
「どこ見てんのさ、こっちだよ」
再び声が聞こえたのは頭上からだった。庭に植えられた木に素早く駆け上ったため消えたように見えたのだ。
「ほら早くおいでよ」
「え、でも…」
私はまだ一度も木に登ったことがない。
「大丈夫だよ、風が気持ちいいから」
柘榴に強く促され、私はおずおずと前足を幹に掛けた。そっと爪を立て、強度を確かめながらゆっくり体重を乗せていく。猫の身体は木を登れるように創られているらしく、私でも登っていくことができた。
ようやく柘榴の待つ枝まで辿り着けば、その場所からは庭も塀の外の景色も一望できた。確かに風も心地よく、くすぐったくて思わずくしゃみが出る。
「ここはのんびり考え事をする場所だよ」
枝に身を伏せてくつろいでいる柘榴の真似をしながら、私はおずおずと質問した。
「あのー…貴方のご主人って、何て名前なんですか?」
「秋彦って名前だけど、皆には『京極堂』って呼ばれてるよ」
「京極堂…」
教えてもらったばかりの名を呟いてみる。屋号をそのまま取ったそれは、背筋を伸ばしてずっと本を読んでいる彼に相応しいと思えた。
「じゃあ次は、じっくり考え事をする場所ねー」
考え事は終わったのか、そう言って尻尾を一振りした柘榴はぴょんと枝の先から飛び下りた。
「柘榴さん!?」
柘榴は見事に塀の上に着地した。勿論私もその後に続きたいのだが、目が悪いうえに運動音痴、外を歩き回るのは初めてという私がきちんと飛び下りられるのか、全く自信が無い。私は枝の上で足踏みをしてしまった。
「あ、あの…他に下りる方法って無いんですか…?」
「さあねー、そんなの知らないよー」
下りる時の事など何も考えていなかった私も悪いのだが、柘榴は困ったように首を傾げるとどこかへ姿を消してしまった。
「寒い…」
私は枝の付け根付近で身体を丸め、それでも防げない寒さに震えていた。
「お腹空いたな…」
中禅寺家の餌は朝夕二回のようで、誰にも気付かれることなく辺りは暗くなってきていた。太陽が橙色に染まり落ちた影が黒く長くなっていけば、距離感を狂わされ余計私は動けない。こんなことなら明るくて体力もあるうちに勇気を出して飛び下りておけば良かった、と後悔しても後の祭りである。と、その時。
「こんなところにいたのか」
私は目を開けた。少しだけ身を起こして下を見れば、庭に出てきた京極堂が腕を組んで私を見上げていた。
「下りられなくなったんだな。鳴けば気付いただろうに、いつから居たんだ」
私はずっと誰かの助けを求めていたというのに、声を出して自分の存在を周囲に知らしめるという簡単なことをちっとも思いつかなかった。
「京極堂…」
顔を顰めた京極堂は、私のいる枝の真下まで来ると、細い両腕を伸ばした。
「飛び下りろ」
けれどその手は枝に届かず、それほど高い場所に居ると再認識した私はくらくらと眩暈を覚える。
高いし、暗いし、寒いし、疲れたし、ぼやけた京極堂の手に飛び下りることなど出来ない―――恐怖に竦んで泣き出しそうな私を見て、京極堂は―――思いがけず、私を呼んだ。
「巽」
「…」
京極堂は私を安心させようとしているのか、微かに頬笑んでいた。
「巽、ほら。怖くなんてない」
静かな抑揚をつけた、京極堂の声。
促すように、差し出された両手が揺れる。
「おいで、巽」
私は無我夢中で飛んでいた。
―――ふわりと乾いた紙の匂い。
しっかり私を抱き止めた京極堂は、逆立った私の毛並みを優しく整えてくれた。
「よく出来たな、巽」
頭上から京極堂の声が降ってくる。
「京極、堂…」
久しぶりの温もりと無事下りられた安堵感から、私は京極堂の胸の中で意識を手放した。
あの事件以来、私はまだ木に登っていない。
柘榴は次の日、案内できなかった「じっくり考え事をする場所」やら「ごろごろ昼寝をする場所」やらを教えてくれたし、その後も何度か木に登ろうと誘ってくれたけれど、少し怖かったのだ。
私は、今日も本を読んでいる京極堂の近くで丸くなる。
今度はいつ、名前を呼んでもらえるか待ちながら―――
やっと始まりました!
ネタは考えてあるから早く次を書けるといいなあ…。
|