「じゃあいってくるわね、タツさん」

 返事をすると、優しく頭を撫でられた。
 仕事を終えて雪絵が戻るまで、私は夕方まで一軒家に一匹で取り残される。
 雪絵は自分自身とそして私を養うために毎日働きにでているのだし、そのことについては有り難いと思う。それに、独りで時を無為に過ごすことには慣れているはずだった。
 けれど何故か、私はあの静けさと古紙の匂いが無性に懐かしく――気が付けば、台所の細く開いた窓から外に出ていたのだった。



317.通りすがりの…



 私は京極堂から家に帰ってきたときのことを思い出し、道を逆に辿ろうとした。だが悲しいかな、角を一つ曲がったところで早くも記憶が覚束なかったのである。
考えてみれば、当時は道順を覚える努力など一切していなかったし、そもそも私は雪絵の腕の中で時折居眠りさえしていたのである。

「しばらくは真っ直ぐ歩いたと思うんだけどなぁ…」

 非常に曖昧な記憶を頼りに私は歩き続けるものの、人の足と猫のそれでは「しばらく」の度合いも違っているだろう。

――単独で京極堂を目指すのは非常に困難である――

 出発してみれば火を見るより明らかな事実に何故気付かなかったのかと過去の己を責めたい気分だが、これまでの短い人生を振り返るに、物事を深く考えられないのが猫という生物なのである。
 こうしたらこうなるとか、あれをするにはこれをしないと駄目だといった思慮を猫に要求するのは土台無理な話なのだ。
 まだ一度しか曲がっていないので家には簡単に戻れる。だが、私が出てきた窓は外から入るとなるととても高い位置にあるのである。
 どうしたものかと無い知恵を絞って考えていた私は、道端の何かに頭をぶつけてしまった。

「いにゃっ…」

 額に当たる意外にも柔らかい感触を訝る暇もなく、頭上から不穏当な唸り声が聞こえてくる。

「うぅぅぅうう…わん!わん!」

 いきなり激しく吠え立てられ、私の身体が恐怖に竦む。運が悪いことにその痩せた犬には首輪が無く、飢えた目には凶悪な光が宿ってさえいた。

「わん!」

「っ!!」

 野良犬の咆哮を合図のようにして、私は全力で走り出した。
 脇目も降らず、息を切らして必死に逃げる。
 背後には、何が楽しいのか解らないが私を追ってくる犬の気配。
 皮膚に押し当てられた刃物のように、冷たい恐怖が私を締め上げる。
 闇雲に角を曲がり、空き地を突っ切り…ひたすらに逃げる私を嘲笑うように、駆け込んだ路は行き止まりだった。

「がるるる…」

 幸い、家と家の間の狭い隙間に犬は入ってこられないようだった。犬は精一杯鼻先を突っ込み、悔しそうに唸っている。だが、むき出しになった鋭い牙と爛々と光る目が、未だ私という餌を諦めていないのだと語っていた。

「っ…」

 こんな場所で助けを求めても無駄に決まっている。
 押し寄せる無力感と絶望感――それだけで私は心臓が止まりそうになっていた。
――ここで死ぬのか。
 犬に、烏に鼠に蟲に食い散らかされ、跡形もなく朽ちるのか。
それとも――

(……京)

「きゃん、きゃうん!!」

 甲高い野良犬の悲鳴に、私は伏せていた顔を上げた。見れば、何かを警戒するように身を低くした犬がじりじりと後退している。

「おら、さっさと消えろ!!」

「…?」

 聞き覚えの無い濁声が小石と共に犬へ投じられ、犬の姿が私の区切られた視界から消え去った。
 誰かが興奮した野良犬を目に留め、追い払ってくれたのか。
 助かった、と思う私の上に先刻より濃い影が覆いかぶさる。大柄でごつい顔付きの男が、ぬっと覗き込んできたのだ。

「ぁあ?…なんだ、猫かよ」

 ガキでも追っ掛けられてんのかと思ったぜ。
 男はがりがりと後頭部を掻きながらそう言った。
 毛深い腕が伸びてきて、私は軽々と摘み上げられる。

「ほらよ。気を付けて帰れよ」

 ぶっきらぼうにそう言って私を地面に下ろすと、男は野良犬が逃げた方へ去って行った。



 生命の危機を乗り越えたものの、それは新たな危機の直面に過ぎなかった。
―――帰り道が分からない。
 私がどうしたものかと思案に暮れながら、とりあえず前進していると、遠くに交番が見えてきた。
 誰が言ったか、道に迷ったら交番である。私は足を速めた。

「うーん…」

 交番の前に貼られている地図を見上げるが、位置が高く読めない。
 私の場合、近過ぎても見えないのだが。

「あのー…」

 私は中の駐在に声を掛けた。言葉が通じないので道を訊くことはできないが、抱き上げてもらえれば地図が見えるかもしれないと思ったのだ。

「ん?どうした、腹空かしてんのか?」

 幸運なことに動物好きの人間だったようで、駐在はにこにこしながら私の前にしゃがんだ。

「お前に遣れるような餌は無いなぁ。水でも飲むか?」

「にゃ、にゃー…」

 頭を撫でられ、対人恐怖症の気がある私の毛が逆立った。しかし、それでもなんとか愛想を振りまいて。

「ほいよ」

 一度奥に引っ込んだ駐在は、ヤカンと浅い皿を持ってきた。先程の騒動で喉はからからだったので、私は遠慮なく小皿に注がれた水を飲んだ。
 駐在は私の喉を擽ったり、背中を撫でたりはするのだが、一向に抱き上げてはくれない。

(…意志疎通ができていないのだから当然か)

 もどかしくも駐在に身を任せていると、聞き覚えのある声が降ってきた。

「お。…また会ったな」

「あ…」

 交番を通りがかったのは、先程野良犬を追い払ってくれた男だった。

「これはこれは、木場の旦那。聞き込みですかい?」

 私をじゃらしていた駐在が立ち上がって敬礼をした。どうやらこの男は警察官で、木場というらしい。

「まぁな。こいつ、アンタんとこのか?」

 こいつ、のところで視線が合った。怒っているわけでもないだろうに、目つきが悪い。
 私は思わず後ずさった。駐在は木場の強面に慣れているのか、愛想よく答える。

「いや、見かけない猫でね。野良かも知れません。旦那、拾ってやったらどうです?」

「にゃっ」

 可愛いでしょうと言いながら、ようやく駐在が私を抱き上げたが、前に木場が立っていて地図は見えなかった。
 このまま交番付近に留まっていれば、帰宅して私がいないことに気付いた雪絵が探しに尋ねて来るかもしれない。あと数時間の辛抱だ―――けれど。
 雪絵は私が二度と外に出てしまわないようにするだろう。
 それは嫌だ。

 もう、京極堂に会いに行けないかもしれないなんて。

「そんな甲斐性ねぇよ。…あ」

 面倒そうに頭を掻いていた木場が動きを止めた。

「どうしました?」

「…最近、下宿先の婆さんが猫飼いたがってんだよ。どうすっかな…」

「あぁ、そりゃうってつけじゃないですか!良かったな、お前!」

「いや、まだ飼うとは……まあ、いいか」

「にゃ?あ…!」

 思索にふけり、二人の遣り取りを聞き逃していた私は、再び木場に摘み上げられようやく我に返った。

「な、何…!?」

「大人しくしてろよ」

 逃げる間もなく、木場の背広のポケットに突っ込まれた。固い布地に挟まれ、視界が暗闇に包まれる。木場は駐在に別れを告げ、歩き出したようだった。

(ど、どうしよう…雪絵…京極堂…!!)





通りすがりの木場修でした。
関口君馬鹿ですね。次回はアノヒト!